2017年10月12日

自我と自己

私たちはふつう「自分」というものを意識しています。
ふつうの意味でいう「自分」は「自我 ego」を指すことが多いです。

「自我」は太陽神経叢のチャクラといわれる第3チャクラと関係しています。内臓的には腎臓でしょうか。身体の中心にあり、すべての肉体活動を統括しています。肉体をもって生きる地球生物としての人間の中心が「自我」ですね。

ですが、私たちは肉体がすべてではありません。人間というのはとても重層的な存在です。
目に見える肉体だけが人間だと思うと、一見、とても単純にみえますが、ちょっと眼のいい人は肉体以上のものが見えますし、さらに眼のいい人は、もっともっと大きなものも見えるでしょう。

スピリチュアルの考え方では、エネルギー体である魂が、エネルギー体のままではできない大きな学びを経験するために肉体に宿ったのが人間だと考えます。この魂に近いレベルの「自分」は「自己 self」と呼べるでしょう。

自分のことばっかり優先する「自己中」は、正しくは「自我中」なわけですが、かといって、じゃあ自我をないがしろにしたほうがいいのかというと、それはまったく違います。

自分のことはほっといて人のことを最優先に尽くす人は、一見、レベルが高く見えますが、ちゃんと段階を踏んで到達しているのかが問題だと私は思います。一足飛びに自分を捨てて人に尽くすのは、確かに手っ取り早くて手間いらずでデキタ人間になった気がするものですが、中身はどうなのかなと。

つまり、自我をしっかり確立したうえで、あえて自我を捨て、自己の声に従うという生き方は称賛すべきものですが、そもそも自我が確立していない状態で、ないからちょうどいいやと、眼に見えない自己の声を土台にして生きるのは、せっかく肉体を持って生まれてきた甲斐がないのではと思うワケです。学びの機会損失。

たいていの人間は、思春期に自我の確立が起こりますが、このとき、青少年はまわりの人間や大人から独立した「自分」というものを意識しはじめます。人とは違う自分、自分だけの個性、欲求、興味関心というものを私たちは確立していくわけです。これが独立して生きるための人生の土台になります。

自分を重要視しない、大切にしないということは、「自我」が確立していないか、「自我」の声を封殺しているということです。
良くないと分かっている悪癖(飲酒喫煙暴飲暴食淫行邪行など)に引きずられて、やりたい放題してしまうのは、「自我」の欲求に忠実というより、肥大したストレス=心の穴に引きずられ、それを満たそうとしているだけです。それを続けていくと「自我」=「肉体をもった自分」が壊れてしまいますからね。自我はそんなこと望みません。

「自我」の声に耳を傾けて、最善の状態を維持できるようバランスを取りながらしっかり地球と結びつき、そのうえで、魂のパーソナルな部分であるセルフ、あるいはさらに高いレベルのハイヤーセルフの声を聞いて、人のため人類のため地球のため宇宙のため、活動するのは素晴らしいことです。

そのようなことも講座ではたまにお話ししております。体験談を交えながら(苦笑)。




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